日曜の午後、みのおピースリボンの会の主催で「シベリア抑留のお話を聴く会」が開催されました。「シベリア抑留」については学校でもほとん教えられないし体験者が高齢で激減していることからあまり知られていませんが、第二次大戦後の満州で捕虜となった日本兵や民間人が、ポツダム宣言に違反したソ連によってシベリア、モンゴル、中央アジアなど広範囲に移送され、飢えと寒さと強制労働の苦しい数年間を送った事実を言います。約60万人が抑留されそのうちの約1割が現地で死亡しました。
今回お話を伺った安田貫三さんは神戸市在住の89歳。満州で国境警備隊の兵士であった時に8月15日の終戦を迎えましたが、部隊には終戦が知らされなかったため8月29日まで戦い、そこでも2000人近くの命が落とされました。安田さんはその後3年間、シベリアのチタ州ハラグンのラーゲリ(収容所)で過酷な生活を送ることになります。

シベリアの気候は厳しく、冬はマイナス30度から40度にもなります。着の身着のまま、1日の食べ物が黒パンひとかたまり、それで森林伐採の重労働ですから、栄養失調や寒さで亡くなる人が多かったのです。南京虫やシラミにも悩まされました。数ミリもある大きなシラミを使ってシラミレースをするのだそうです。一番早くにゴールしたシラミの持ち主がマッチ箱ぐらいの黒パンがもらえるという、笑えない賭け事もあったとか。停車している貨車から失敬した岩塩で命をつないだとか、松の枯れ枝に住む幼虫が何よりのごちそうであったとか、食べ物にまつわる話はきりがありません。
実は亡くなった私の父もシベリア抑留者でした。それも安田さんと同時期同地区のラーゲリにいたということがわかり驚きでした。抑留生活をほとんど家族に話さなかったという人も多い中で(話すのがつらすぎたのだと思います)、私の父はわりと話してくれた方でした。栄養失調で死んだ戦友の話や、松の実や岩塩がおいしかった話や、寒くて糞便がすぐに凍った話などです。父は戦友の墓参りを生涯の夢としていましたが、ソ連が開放される直前に亡くなってしまいました。
きょう安田さんの話を多くの方が聴きに来てくださいました。父や祖父が抑留されていたという人たちや舞鶴の引き揚げ記念館で語り部ボランティアをやっている人もありました。安田さんは残る人生をシベリアを伝えることに専念されています(写真は安田さんのライフワークとも言えるシベリア資料です)。今回の会は朝日新聞の「声」欄「語りつぐ戦争」の安田さんの記事がきっかけでしたが、実際、体験者が激減していく中で、「語りつぐ」ことの大切さを感じた1日でもありました。
今回お話を伺った安田貫三さんは神戸市在住の89歳。満州で国境警備隊の兵士であった時に8月15日の終戦を迎えましたが、部隊には終戦が知らされなかったため8月29日まで戦い、そこでも2000人近くの命が落とされました。安田さんはその後3年間、シベリアのチタ州ハラグンのラーゲリ(収容所)で過酷な生活を送ることになります。

シベリアの気候は厳しく、冬はマイナス30度から40度にもなります。着の身着のまま、1日の食べ物が黒パンひとかたまり、それで森林伐採の重労働ですから、栄養失調や寒さで亡くなる人が多かったのです。南京虫やシラミにも悩まされました。数ミリもある大きなシラミを使ってシラミレースをするのだそうです。一番早くにゴールしたシラミの持ち主がマッチ箱ぐらいの黒パンがもらえるという、笑えない賭け事もあったとか。停車している貨車から失敬した岩塩で命をつないだとか、松の枯れ枝に住む幼虫が何よりのごちそうであったとか、食べ物にまつわる話はきりがありません。
実は亡くなった私の父もシベリア抑留者でした。それも安田さんと同時期同地区のラーゲリにいたということがわかり驚きでした。抑留生活をほとんど家族に話さなかったという人も多い中で(話すのがつらすぎたのだと思います)、私の父はわりと話してくれた方でした。栄養失調で死んだ戦友の話や、松の実や岩塩がおいしかった話や、寒くて糞便がすぐに凍った話などです。父は戦友の墓参りを生涯の夢としていましたが、ソ連が開放される直前に亡くなってしまいました。
きょう安田さんの話を多くの方が聴きに来てくださいました。父や祖父が抑留されていたという人たちや舞鶴の引き揚げ記念館で語り部ボランティアをやっている人もありました。安田さんは残る人生をシベリアを伝えることに専念されています(写真は安田さんのライフワークとも言えるシベリア資料です)。今回の会は朝日新聞の「声」欄「語りつぐ戦争」の安田さんの記事がきっかけでしたが、実際、体験者が激減していく中で、「語りつぐ」ことの大切さを感じた1日でもありました。