
いつも仕入れていた店がコロナで閉まっていたり、いろんなものが値上がりしていたり、円安だったりで、残念な事情が重なりましたが、それでもやはり買い物は楽しいですね。
少し個別にご紹介します。

店に入って最初に目についた籐のかごです。三角の持ち手がおしゃれですね。

これは何だかわかりますか。蝿帳(はいちょう)と言って、昭和の人ならわかると思いますが、食べ物を置いとく時に、蠅から防ぐかごです。もちろん他の用途にもどうぞ。かわいらしくてつい買いました。
アタかごは値上がりしていて3個しか買えませんでした。早い者勝ちですね。


布(サロンー腰巻のサイズです)は12本あります。そのまま巻きスカートのように使ってもよいし、カバーに使っても、あるいは布から何かをつくってもよいですね。
ビーズバッグはカリマンタン島からです。島独特のモチーフがすてきで

今週の金曜日29日から営業を再開します。インドネシアからの工芸品は8月いっぱい窓カウンターに置きますので、ぜひお早めに手に取ってみてくださいね。

バリ島には日本人学校がありません。企業が少なく日本人学校を作るだけの日本人子女がいないためです。
しかし日本人のお母さんとインドネシア人のお父さんの国際結婚による子女は多く、ずっとバリに住み続けるとはいえ、やはり半分のルーツである日本人としての日本語と日本文化を身に付けてほしいというのは、親としての当然の気持ちでした。
そこで日本人会の尽力で1990年に作られたのがバリ日本語補習授業校です。今年は創立32年を迎えます。(写真はFBからいただきました)多くのダブルの子どもたちが、現地校が終わってから補習校で国語と算数を学んでいます。
我が家の二女も中学生の間は、インターナショナルスクールに通いながら補習校で週2回お世話になっていました。国語と数学を学ぶだけでなく、精神的にもどれだけ助けられたかわかりません。

今回補習校を訪れると、たまたま維持会の会議の日で、なつかしい方々に会うことができました。20年前に5年間駐在しただけの私たち をとても温かく迎えてくださいました。みなさん、バリ在住何十年、バリ日本人会を支えてくださっている重鎮です。写真の背景に写っている看板は、当時補習校校長(ボランティア)と習字の先生をしていたテリーさんが書いたものです。
もうひとつ、私たちと補習校を切っても切れないものにしているのは、補習校の「校歌」です。帰国後の私たちの元へ補習校から「校歌の作詞をしてほしい」というご依頼がありました。曲はもうできていて、世界的に有名な竹ガムラン奏者イ・クトゥット・スウエントラさん(2018年没)の作曲でした。

それからの作業はとても楽しいものでした。バリの海や空や子どもたちの顔を思い浮かべながら、こんなにも豊かな島で育ったみんなだから国境を超えて大きくはばたいてほしいという思いで言葉を紡ぎました。以下はその歌詞です。メロディはこちらから聴くことができます↓
https://www.youtube.com/watch?v=7zG-doAQXBI
作詞:斎藤輝久・和子
作曲:クトゥット スウェントラ&斎藤和宏
1.みどりの風さわやかな学び舎に 明るい歌声が響き合い
新しい未来を拓くため 日本とバリと世界をつなぐ補習校
◆ 花のかおり 誇りたかき島に満ちあふれ 清き流れ 深きめぐみ 大地をうるおして
ああ サヌールの海 蒼くあれ われらのびゆく 地球の子
2.椰子の木々見上げればおおぞらの 輝く太陽が呼びかける
ガルーダのように高く飛べ 日本とバリと世界をつなぐ補習校
◆ (繰り返し)
ああ アグンの山よ 永久にあれ われらはばたく 地球の子
3.ブーゲンビリアの花が ささやくよ やさしいこころと祈りのこころ
平和な地球をつくるため 日本とバリと世界をつなぐ補習校
◆ (繰り返し)
ああ バリの空よ 美しくあれ われら希望の 地球の子
バリ日本語補習校は、幼、小、中を合わせて300名以上だった時代もありましたが、今はコロナ禍で仕事を失い日本へ帰国する人が増え、約半分になっているそうです。そうすると経営もなかなか大変で、バリ好きな人、バリにつながりがある人達からの寄付を受け付けています。お気持ちのある方はぜひお問い合わせください。https://jjcbali.jimdofree.com/

これはホテルの朝食ビュッフェです。別にすごくいいホテルというわけではありません。もちろん日本ではこんな大盛りの朝食は食べませんよ。でもここでは食べられてしまう。
ビュッフェを盛り合わせるとナシチャンプル風になります。ナシチャンプルは私の中ではベスト1で、エスペーロランチもそのイメージです。
マイチョイスのこのプレートを簡単に説明します。ごはんは、ナシゴレン(炒飯)、黒米、白ご飯の3種を盛りました。白ご飯は手前のサンバルマタ(玉ねぎやチリで作った薬味)があればいくらでも美味しく食べられます。真ん中は牛肉を煮込んだレンダンとソーセージ、その上は茄子とインゲンの炒め物、その横は野菜のかき揚げです。そしてクルプック(えびせんべい)は欠かせません。

ソト(スープ)もはずせません。ソトアヤム(チキンスープ)が一般的ですが、野菜だけのスープもあります。写真はホテルの前にあった2坪くらいのローカルのワルン(食堂)ですが、ごはんがついて150円ほどのソトアヤムでもじゅうぶん美味しかったで

サーラとディオと一緒に食べに行った時はふたりにまかせてハラール(イスラムにおいて合法という意味)の店に行きました。ふたりはモスレムなので、豚肉はもちろんのこと、豚肉から出たエキスやアルコール由来の物は食べないのです。そんな時に目印になるのがこのマークです。

サーラが日本滞在中、我が家の食卓には一度も豚肉は上りませんでした。みりんの代わりに、ほとんどアルコールを含まない(1%未満)「みりん風調味料」を使っていたことを思い出します。
食はいろいろな文化を教えてくれますね。

バリクパパン空港を出たところで人ごみから飛び出してきたサーラと何度もハグ。相変わらず泣き虫サーラでした。
ハズバンドになったディオは高校の時の1年先輩。身体が大きくて口数は多くないけど優しい気持ちが伝わる好青年でした。高校の時からの愛を何回かの遠距離恋愛を経て結実させたふたりです。
翌日、結婚式の前にお家へ。それほど広くない家の中で親戚の人たちがワチャワチャとしゃべったり笑ったりにぎやかです。お母さん、お父さん、おばあちゃんにご挨拶。ここではさびついたインドネシア語をがんばって繰り出します。とても暖かいビッグファミリーです。おばあちゃんに「私もネネッ(おばあちゃん)です。6人孫がいます」と言うと「私は7人」と茶目っけたっぷりに笑うおばあちゃんでした。サーラに「おばあちゃん何歳?」と聞くと「知らない」。お母さんもサーラも若いので、おばあちゃんはきっと私と変わらないと思います。
私にもインドネシア式のメイクをしてくれて、用意してくれていたクバヤという民族衣装を着て、みんなで式場へ。なぜか私たちもステージに上がって次から次へやってくるゲストとひたすら握手とあいさつをしました。なにしろ700世帯に招待状を出していますから、平均3名来るとして、ビュッフェのフードは2000名分だそうです。スピーチも歌も踊りもなし。ひたすらあいさつして食べてしゃべって適当に帰っていく、というスタイルです。日本の格式ばった結婚式とちがって、ゆる~くて笑いの多い結婚式でした。

ハネムーンはバリです。二人は私たちと同じ飛行機でデンパサールへ移動しました。両方の親御さんと友達が空港まで送ってくれ て、お母さんが「サーラに子どもができたらあなたもおばあちゃんだからね。また会いに来てね」って。バリでは、ハネムーンだからあまり邪魔しちゃいけないと思いながら、それでもㇴサプニダという島へ一緒に遊びに行ったり、町へ一緒にご飯を食べに行ったりしました。写真は島の浜辺を歩くふたりです。幸せのオーラがあふれていますね。それを見る私たちも幸せな気持ちです。
4日間バリに滞在した後、サーラとディオはサーラが大学時代を過ごしたスラバヤへ。私たちは帰国のためにジャカルタへ向かいました。


6月末の暑さ、私たちの体調不良、と続き、さらに明後日はインドネシア旅行(ンドネシアの”娘”サーラの結婚披露パーティに参加します)に出発するため、7月いっぱい休業としておりましたが、少し早く、7月29日(金)から営業再開することにしました。
この間、異常な暑さ、世情不安、選挙結果、コロナ拡大、と心穏やかならぬ日々が続きました。心に不安を感じて暮らしておられる方も多いかと思います。
私たちはたっぷり時間がある中で、エスペーロ能勢のこれまで、これからを考える余裕がありました。そしてまた、元気に営業を再開しようと思います。
昨日も所用のため、テリーさんとふたりで店に行きましたが、ああ、またここにお客様を迎えたいと心から思いました。
29日(金)から、通常通り11時~17時の営業です。みなさまのご来店をお待ちしております。